―イスラームへの旅―

ナージー・イブラーヒーム・アル=アルファジュ

イスラームでは唯一なる神アッラーが、全ての創造物を創造したとします。全ての人類、動物、地球、山々、海、川、植物、森、太陽、月、銀河、軌道、昼と夜をアッラーが創造したとするのです。他に私達が知りえるもの、もしくは知りえないもの、まだ発見されていないものも含め、すべての事物は、アッラーが無数に創造したものの一つの側面なのです。

アッラーは地上すべての生物に生を授け、時間や空間、エネルギー、物質を含む全宇宙を形成しました。その上、アッラーはその全世界とそこに存在するすべての事物の統治者であり、そこに起こりうるすべてのものの支配者でもあります。

しかしながら多くの人々は自己の存在は偶然の事象によって起こったものであり、単なる「自然現象」であると科学的な見方で言及します。それでは彼らが述べる「自然現象」とは? その意味を実際に、紐解いてみる必要があります。「自然現象」とは、一体何でしょうか?

あなたは私と同じように、自然現象が次に述べるこれらの事物を含むことに賛同するはずです。植物や惑星、軌道、銀河、谷、山々、海、川、地球、太陽、月、星、そして、その他の事物。これらの事物は自然に、もしくは人間の手によって創造されたものなのでしょうか?

クルアーンには次のように、美しく述べられています

「人間よ、あなたがたの主に仕えなさい。彼はあなたがたやあなたがた以前の者たちを創造なされた。あなたがたはきっと正しく導かれるであろう。」

2:21

「夜と昼、そして太陽と月を創造されたのはかれ(アッラー)である。」

21:33

それに加え、「自然現象」を信用している人々は、神の存在を認めることができないと主張します。なぜならそれは単純に目に見ることができず、触れること、もしくはかれ(神)に対するそういった試みを行うことができないからであるとします。

2,3年前、アメリカのオレゴン州に住む私の隣人が、私の家を訪ねたときの話です。私達は神の存在について、幾つかの議論を交わしていました。私の隣人はとても年配な方で、神の存在を信じていません。彼は感情的にテーブルを叩き、こう言いました。「私は、このテーブルの存在を信じることができる。なぜなら私はそれに触れることができるし・・・感覚的に捉えることが出来るからだ!」

私は彼の論説を聞いた後で、部屋の中にあったランプを指し示し、彼にこう尋ねました:「あなたは電力の存在を信じることができますか?」彼はこう答えました:「もちろんさ!」私は続けてこう言いました:「あなたは光を引き起こす電力の存在を、見ることができますか?」「いや、(できない)」と彼は答えました。

 

また別の出来事として、ノルウェイのオスロのホテルでクリスという名の若い男性と彼の妻に面会したときの話です。彼らと親しく討論を交わしていたとき、私は彼に尋ねてみました:「人生の目的は何ですか?」と。彼はひどく驚いた様子で、こう答えました:「そんな質問を聞いたのは、これが初めてです!」それに付け加えて、彼は:「自分の人生に目的はないと思う。」と答えました。彼は結論付けてこう言いました:「自分はどの神も信じない。」私は彼に尋ねました:「どうして?」彼はこう答えました:「まだ見たことがないから。」

 

神が遣わした何千以上もの人々(預言者たち)と、それに続く何十億人以上の彼らの追従者たちは、人類の歴史を通して神の存在を明確なものとしてきました。理性的、論理的な手法はここに述べられた人々の(歴史的)証拠に注意を払わずして「科学的」な立場をとります。実際、科学的な論理は森羅万象の特徴や状況については説明しますが、「どうして」もしくは「誰が」これらを創造したのか?という質問に至ることはありません。事実、科学的証拠は、私達の周りに起こる森羅万象の存在は「偶然」によって成り立つ、というあいまいな立場を示します。科学的立場が用いる「偶然」という言葉は、単なる「説明」の一部分にすぎず、森羅万象、そして、そこに存在する自然に関する情報を提供する際に、説明的に用いられるものです。宇宙の存在とその自然は「ただ、このように生じているのです」という具合に示されます。 

 

クルアーンの中では、こう述べられています

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において 言いなさい、「かれはアッラーであり、唯一なる御方。アッラーは、自存され、  御産みなさらないし、御産れになられたのでもない。彼に比べ得るものは、何も ないのである。」 

112:1-4

これはクルアーンの中にある一つの完全な章です。この章が示す僅かな言葉の並びの中には簡潔に唯一なる神(アッラー)についての真実性とその属性が示されています。そして、それは同時に何百万人もの人々が直面している困難、そして重要な疑問に対しての明確な答えでもあるのです。 

平安

 

私達は心の平穏や満足だけでなく、精神的、社会的、そして世界的な平和を、クルアーンと預言者の伝承というかけがえのない遺産を通して達成することができます。

要約すれば、イスラームはそれら二つの真正な典拠を基にして教示されます。 クルアーンと預言者の伝承は、私達が唯一なる神(アッラー)を信じることにより、心の平安と幸福、魂の救済を獲得できると述べています。また、私達は神が遣わしたすべての正しい預言者たちをも、信じなければなりません(預言者ムハンマドも含みます)。そして彼らの正しい導きと、その教えに従うことが求められるのです。

しかしながら、イスラームではアッラーを唯一なる神と信じ、かれの預言者たちを信じるだけでは、心の平安や幸福(安寧)、魂の救済を得るには十分ではないと説いています。

私達はアッラーのみを崇拝し、かれの命を遵守することによって、アッラーの意志に沿わなければなりません。

アッラーの意志に従順に従うことは、アッラーが教示するところの本質の部分です。かれに従順に従うことの意味を誠実に理解し、アッラーを信じて善行に励んだ者に対して、アッラーは報奨を準備されています。   

クルアーンの中では、こう述べられています

「本当に、信じ、正しい行いに励んだ者たちは、楽園の園を来世の住処として得ることになろう」

18:107

同様に、聖書の報告の中にはイエス・キリストの兄弟、ヤコブの言葉としてこう述べられています。

「ちょうど魂の抜けた身体が死んだものであるかのように、行為の伴わない信仰も死んだようなものである。」(ヤコブの手紙 2:26)

興味深いことに、同書(ヤコブの手紙 4:7)では前述で述べたイスラームの意味がはっきりと触れられています。

「あなた自身、神に服従するのです」(ヤコブの手紙 4:7)

それ故ムスリムは、イエス・キリストと彼の前に遣わされた数多くの預言者たちの、正しい追従者でもあるのです。「ムスリム」とは、「自らの意志を唯一の正しい神に服従させる者」という意味です。ムスリムはアッラーが唯一の正しい神であるという確信を持ち、正しい行いを心掛けます。彼らはイエス・キリストや先の預言者たちが教え、行ったように従い、神の命ずるところに服します。その例としては、唯一真実の神のみを信仰すること、礼拝を行い、その際にひれ伏し、膝まずくこと、斎戒し、施しを与え、慈悲を投げかけること、「(予定や後々に起こること等に対して)アッラーの御心ならば」(インシャー・アッラー)と言うこと、イエス・キリストや先の預言者たちの挨拶である「あなたの上に平安がありますように」(アッサラーム・アライクム)という言葉を使うこと等があるのです。

これらの既述された、いくつかの例と根拠の一部分は、全ての預言者たちが説いた美しい教え、つまり「イスラーム」の明白な真実性、統一性、そして普遍性を示します。

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