ムハンマドの奇跡(パート2/3)

Site Team

ま た、近隣地の人々が大勢で全く同時刻に月を目撃することは容易いことではありません。そもそも、そうした理由もないのですから。たとえ誰かが目撃したとし ても、それによって人々がその目撃者を信じ、そういった事実を記録するとは限りません。当時の多くの文明は、自分たちの歴史を書面によって記録するという ことをしなかったのです。


また第二の答えとしては、当時のインドの王による、独立した、かつ驚くべき歴史的補強証拠が存在します。


ケララはインドの州の一つです。ケララ州はインド亜大陸の南西部、マラバル海峡沿いに伸びる全長580キロの州です。3マラバルのチャクラワティ・ファルマス王はチェラ王朝を治めていました。彼は月の断裂を目撃したことが記録されています。この出来事は写本に記録されており、現在もロンドンの英国インド省図書館に保存されています(参照番号:Arabic, 2807, 152-173)4。 ムスリム商人の集団による中国への旅路の途中でマラバルに留まった際、彼らはアラブ人預言者の出現と、月の断裂という奇跡について王に話しました。衝撃を 受けた王は、自分自身もそれを目撃したことを明かし、息子に摂政を務めさせ、預言者に会いに行くべく、アラビア半島へと旅立ったのです。王は預言者に出会 い、信仰宣言をし、信仰における基本を学びながらも帰路において亡くなり、イエメンの港町であるザファール5に埋葬されました。


派遣団はムスリムであるマーリク・ブン・ディナールによって先導され、チェラの首都コドゥンガロールにまで続き、西暦629年に、現存するインド最古のモスクを建てたのです。

 

 

 

彼によるイスラーム改宗の知らせはケララに届き、人々もイスラームへと改宗しました。ケララ州カリカットのラクシャディープ諸島とモプラスの人々は、当時改宗した人々の末裔なのです。

 

改修後のチャラマン・ジュマ・マスジド。インド初の改宗ムスリムであるチェラマン・ペルマル・チャクラワティ・ファルマスにちなんで命名されています。写真提供:www.indianholiday.com

 

インドからの目撃、及びインドの王と預言者ムハンマドとの対面は、ムスリム側の史料からも伝えられています。著名なムスリム歴史家であるイブン・カスィールは、インド各地で月の断裂が目撃されたことに言及しています。6  またハディースの諸本では、インドの王の到来と、彼と預言者との対面が記録されています。預言者ムハンマドの教友アブー・サイード・アル=フドリーは述べています:

“インドの王は預言者に生姜の瓶を贈呈しました。教友たちはその断片を食べ、私も一片を口にしました。”7

従って、王は預言者に一度でも会ったことのある者、そしてムスリムとして死んだ者に付けられる称号である「教友」と見なされます。そして彼の名は、預言者の教友の1人として、膨大な史料の中に記録されているのです。8

夜の旅と昇天

マッカからマディーナへの移住の数ヶ月前、神はムハンマドを一夜にしてマッカのハラーム・モスクからエルサレムのアル=アクサー・モスクへとお連れになりました。それは1,230キロ、つまり通常のキャラバンで一月かかる距離でした。彼はエルサレムから諸天へと昇天し、物理的宇宙の境界を超えて神に謁見し、偉大なるみしるし(アル=アーヤ・アル=クブラー)を見たのです。彼の主張は二つの方法により真実であると確証されました。まず、「預言者が戻って来る際に追い越したキャラバンについて、それがどこにあったか、そしてマッカのどこに到着するかを説明し、それらは彼が言った通りの場所に到着しました。」9  次に、彼はそれ以前に一度もエルサレムに行ったことがありませんでしたが、懐疑者たちに対し、アル=アクサー・モスクがどのような場所であったかを正確に説明したのです。

 

 

 

この神秘的な旅はクルアーンにおいても記述されています:

“かれに栄光あれ。そのしもべを、(マッカの)聖なるマスジドから、われが周囲を祝福した至遠の(エルサレムの)マスジドに、夜間、旅をさせた。わが種々の印を彼(ムハンマド)に示すためである。本当にかれこそは全聴にして全視であられる。”(クルアーン17:1)

“彼 の見たことについて、あなたがたは彼と論争するのか。本当に彼(ムハンマド)は、再度の降下においても、かれ(ジブリール)を見たのである。(誰も越せな い)涯にある、スィドラ木の傍で。そのそばに終の住まいの楽園がある。覆うものがスィドラ木をこんもりと覆う時。(かれの)視線は吸い寄せられ、また(不 躾に)度を過ごすこともない。かれは確かに、主の最大の印を見たのである。”(クルアーン53:12〜18)

またこの出来事における目撃証言は、信頼の置ける学者たちによる途切れることのない連続的な伝承経路を通しても同様に確証されています(ハディース・ムタワーティル)。10

 

 

 

 

ムハンマドが昇天したとされる場所であるアル=アクサー・モスクの入り口。写真提供:Thekra A. Sabri



Footnotes:

1サヒーフ・ムスリム。

2Al-Kattani著 ‘Nadhm al-Mutanathira min al-Hadith al-Mutawatir’215頁参照。

3 “Kerala.” Encyclopædia Britannica from Encyclopædia Britannica Premium Service.  (http://www.britannica.com/eb/article-9111226)

4 ムハンマド・ハミードッラー著 “Muhammad Rasulullah” に おいて印用されています:「インド南西部の沿岸マラバルの非常に古い伝統では、王の一人チャクラワティ・ファルマスが、マッカの聖預言者による月の断裂と いう名高い奇跡を観察し、調査の結果、アラビア半島における預言者の到来が予言されていたことについて学び、自らの息子を摂政として任命し、預言者に会う 旅に出ました。彼は預言者の手によってイスラームに改宗し、預言者の指示によって帰国への帰路、イエメンの港町ザファールにおいて死にました。そこでは過 去に『インドの王』の墓が何世紀にも渡り訪れられていました。」

5「ザファール:聖書におけるセファル、古典文学のサッファル、またはサファルは、南イエメンに位置し、ヤリムの南西にある古代アラビアの都市です。そこは紀元前およそ115年から紀元525年まで南アラビアを支配していた部族であるヒムヤル人の首都でした。ペルシャ人による征服(西暦575年) までは、ザファールは南アラビアにおいて最も重要かつ有名な町でした。この事実はアラブ人地理学者・歴史学者だけでなく、ギリシャ人やローマ人の著者らに よっても証言されています。ヒムヤル王朝が滅亡し、その後イスラームが勃興がすると、ザファールは徐々に衰退してきました。」“ザファール”:ブリタニカ百科事典プレミアム版より (http://www.britannica.com/eb/article-9078191)

6イブン・カスィール「アル=ビダーヤ・ワン=ニハーヤ」三巻、130頁。

7 ハーキム「ムスタドラク」四巻、150頁における報告。ハーキムはこう述べています:「私は預言者が生姜を食べたという報告は、どこにおいても全く記憶していない。」

8 イブン・ハジャル「アル=イサーバ」三巻、279頁、及びイマーム・アッ=ザハビーによる「リサーン・アル=ミーザーン」三巻、10頁で、彼の名は「サルバナク」というアラブ人に知られた通り名で記されています。

9 マーティン・リングス著 ‘Muhammad: His Life Based on the Earliest Sources’ 103頁。

10 預言者の45人の教友たちが彼による夜の旅と昇天に関して伝承しています。ハディース大学者であるアッ=スユーティー著‘Azhar al-Mutanathira fi al-Ahadith al-Mutawatira’ 263頁と、アル=カッタニー著‘Azhar al-Mutanathira fi al-Ahadith

Related Articles with ムハンマドの奇跡(パート2/3)