真の豊かさとは(後半)


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現世において、いかに満足した人生を営むかについて。


人がいかに富を築き上げようとも、有効に使えているのは現実には非常に小さな部分だけです。預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)による叡智ある助言について熟考してみましょう。アブドッラー・ブン・アッ=シャヒールはこのように伝えています。


「私は預言者が“アルハークムッ=タカースル(あなたがたは〈財産や息子などの〉多いことを張り合って、現を抜かす。)”(クルアーン102:1)を朗誦している際に彼の所に入りました。すると彼は言いました。『アダムの子(人間)は“私の富!私の富!”と言う。だがアダムの子よ、あなたはそれによって食べ、排泄し、またはそれによって服が古くなるまで着用するが、それによって喜捨をして(来世での報奨を得るために)送り出すこと以外に、役立てているのですか?』」(サヒーフ・ムスリム)

 


このハディースで預言者は、私たちの富は現実的にはただ3 つの方法だけに使われていることを私たちに気付かせます。第一に、私たちの食べる物で、それは最終的には排泄物となります。第二に、私たちの着る衣服で、 それはやがてぼろとなり、着用することができなくなってしまいます。第三に、神のために施された富であり、それは有益性が留まり、私たちに帰ってくる唯一 のものです。それゆえ、永久に益することのために使われているのは実際にはほんの僅かに過ぎないにも関わらず、人が「自分の富」を満足げに眺め、自慢し、 それを熱望し続けることに一体何の利益があるというのでしょうか?

 


そうした要因によって、預言者ムハンマドは人類 に対し、富とは人が所有する物質の量と比例するものではないということを注意しているのです。真の富とは、自分の持っているものに満足し、来世において永 続する報奨のために費やそうと努力することなのです。預言者はこのように述べています。

 “富かさとは所有物の量のことではない。真の富かさとは自身の(幸福さにおける)豊かさなのである。”(サヒーフ・ブハーリー)

また、彼はこのようにも述べています。

 “少なくともそれだけで事足りるものは、多いながらも気を散らせるものよりも良いのである。”

三つ目のハディースには、こうあります。

 “イスラームに導かれた者こそは成功者であり、彼の供給は事足り、彼はそれに満足する。”(サヒーフ・ムスリム)


最後のハディースには、こうあります。

 “最もよい供給とは、それだけで十分に事足りるものである。”

ここから、私たちは真の成功と富というものは、 誠実さ、そして実践に基づいた信仰から来る安寧と満足感であることが明白に分かります。心の満足こそが、人がこうした真の豊かさを実感し、感謝させるもの なのです。預言者はこのような豊かさを別のハディースにおいて説明しています。


 “あなた方の中の誰であれ、安全が確保された自宅で起床し、健康体であり、一日に必要最低限の食事をとれるのなら、それは世界とその中のすべてのものを手に入れたも同然なのである。”


このハディースには、得ることの出来る多くの利益があります。「あなた方の中の誰であれ…」とは、ムスリムたちを意味し、イスラームによる第一かつ最も偉大な祝福を示しています。「安全が確保された自宅で起床し…」とは、個人またはその家族に危険が及ばず、その恐れもないこと、そして起床することによって生命という祝福を受けていることを意味します。「健康体であり…」 とは、神が彼または彼女から病気という災厄から救ってくださったことを意味し、「一日に必要最低限の食事をとれる」のは、たとえ最低限の食事であっても、 それは神による偉大な祝福であること、そして「世界とその中のすべてのものを手に入れたも同然」というのは、それらが現世において人の必要としているすべ てのものであり、そうした最低限以上のものは、不必要な贅沢であることを示しています。その量が多かれ少なかれ、神による供給に対しての満足とは、人生に 対しての満足であり、それこそが人の得ることの出来る最高の富なのです。預言者はこのように述べています。


 “実 に、神はお与えになったものによってそのしもべを試みるのである。それゆえ、誰であれ、割り当てられたものが何であれ、それに満足する者は、神はそれに よって彼を祝福し、さらに多くを与えるのである。しかし、誰であれ(与えられたもの)に満足しない者は、それによって祝福されはしないであろう。”

人生における自らの供給と割り当てに満足する者 たちは、財産への心配と他者の地位を気にすることがなくなります。そのような人々は、他者がどれ程の財産を持っているのかや、どのような車に乗っている か、どのような家に住んでいるのかを気にしたりはしません。このような純粋な心を持つ者たちは、神を愛し、神に感謝し、現世の物品は幸せを買うことなど出 来ないこと、そして信仰と満足心による祝福とは何かを知っているのです。その見返りとして、彼らは神によって、そして周囲の人々からも愛されます。こうし た原則は、預言者にまつわる伝承において明白に述べられています。


 “現世(への願望)を諦めれば、神はあなたを愛されよう。他者の所有物(への願望)を諦めれば、人々はあなたを愛するだろう。”

別の伝承においては、ある人物が預言者のもとを訪れ、このように尋ねています。「神の使徒よ!私に伝承をお伝え下さい。そしてそれを短いものとしてください!」そして彼はこのように答えています。


 “そ れがあたかも最後のものであるかのように、またかれ(神)を目の当たりにしているかのように礼拝するのだ。それというのも、あなたにはかれが見えなくと も、かれにはあなたが見えているのだから。そして、他人の持っているもの(を所有すること)への願望をやめるのだ。そうすれば、十全な人生を生きることが 出来よう。また何であれ、(後になって)言い訳しなければならなくなる様なことについて気を付けるのだ。”

したがって、神のご満悦と来世での報奨を主要な 目的とする者は、神によって愛されるのであり、ムスリム同胞と現世の諸事において競い合うことを避ける者は、人々によって愛されるのです。そしてこのよう な豊かさ、つまり神と人々からの愛は、お金によって買うことの出来るいかなる富よりも遥かに大きなものなのです。


この共同体の敬虔なる先人たちも、こうした原則を認識していました。アウン・ブン・アブドッラーは言っています。「最も偉大なる祝福とは、あなたにとって物事が困難となったとき、あなたが与えられた、イスラームという祝福を感謝することなのである。」そ れゆえ、あなたが経済的な困窮に陥ったときは、あなたが得ることの出来ない物質的・一時的な喜びについて悩むよりも、神があなたがそれによって祝福した 「イーマーン(信仰)の宝」について熟考し、ムスリムであることの大きな幸福について感謝すべきなのです。同様に、金銭の取得や損失によって有頂天または 憂鬱な状態にあるときは、ムハンマド・ブン・スーカの言葉を思い起こすべきです。

 

 


 “そのものによって神が我々に懲罰をお与えにならないものの、我々自身の懲罰に値するような2つの性質がある。我々はこの世界で得る小さな利益に歓喜するが、神は我々の行う善行で我々がそのように歓喜するのを見たことはない。そして我々はこの世界における小さな物事で心配するが、神は我々が犯す罪で我々がそのように心配するのを見たことはない。”

私はこの記事を、神が預言者と信仰者たちに対し、現世における富を渇望しないよう注意を促す節によって締め括りたいと思います。それらの富は、神への従順を拒否した者たちに与えられたものであり、信仰者は来世における富のために努力すべきなのです。

 “またわれが、かれらのある部類の者に与えたこの世の生活の栄華に、あなたの目を見張ってはならない。われは、それによってかれらを試みた。あなたの主の賜物こそ至上でまた永続する。”(クルアーン20:131)

 



Footnotes:

  アブー・ヤアラー、イブン・アディー。アル=アルバーニーはアッ=サヒーハにおいて、それを真正として等級付けています。

             イブン・ヒッバーン。アッ=スィルスィラ・アッ=サヒーハ参照。

             アル=ブハーリー、アッ=ティルミズィー、イブン・ヒッバーン。アル=アルバーニーはその著スィルスィラにおいて、アッ=ティルミズィーに同意しています。

アッ=サヒーハにおいて言及された、アフマドによる伝承。

イブン・マージャ、アル=ハーキム。アル=アルバーニーはアッ=スィルスィラのなかで、それを真正として等級付けています。

サヒーフ・ブハーリー、アッ=タバラーニー。

アブドッラー・ブン・マスウード。彼はハディースを述べ伝えるとき、髭を涙で濡らしたものでした。彼はヒジュラ暦115年に亡くなっています。

             イブン・アビー・アッ=ドゥンヤー、アル=カナーア・ワ・アッ=タアッフフ。

             同上。

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