真実はひとつである(2/2)
“真実とは相対的であり、あらゆる宗教は正しい”のであると信じる人々は、宗教は純粋に個人の心の問題であるため、人の信仰を間違いであると評するのは不可能であると見なします。こういった主張の過ちは明らかであるため、私たちはその反証に大きな時間を費やすことはしません。もしも一つの宗教により、イエスは偽預言者であるとされ、別の宗教では彼こそが神であるとされ、もう一つの宗教では彼が預言者として選ばれた特別な人間であるとされれば、それら全てが正しいことは有り得るでしょうか?イエス(彼に神の称賛あれ)は上記の三つの内のどれかに当てはまらねばならず、三つとも正しいということは不可能なのです。従ってその内のどれか一つが正しいということになり、その一つがどれであるかが確証されることにより、残りの選択肢は間違いであることが決定されるのです。
しかしながら、これは人が自分の望むものを信じる権利を阻むことではありません。それは神が人間に授けた権利であるからです。同時に、それらが全て正しいと主張したり、それらに関する判断を人がすべきではないという極端な解釈をすることでもないのです。また、望むものを信じる権利が人に与えられているということは、彼らがそれらの信仰を公言し、実践出来るということでもありません。なぜなら社会に適用されている法とは、様々な行為が社会全体に及ぼす影響、すなわちそれらが社会全体にとって有益か有害であるかを考慮するものであるからです。
ここまでの議論により、私たちは今日の世界宗教は全て偽りであるか、もしくはそれらの中に包括的な真実を有するものが存在するかという、疑いのない仮定に至ることが出来ます。多くの宗教には類似点などの共通事項もありますが、根本的な違いもあるのです。
もし私たちが現在世界中にある全ての宗教が間違っているのだと主張すれば、それは必然的に神が不正を行うことを信じることにつながります。なぜならそれは神が私たちに正しい方法や導きを与えず、罪のままに地上をさまよわせていることになるからです。これは公正な神にとって有り得ないことです。従って唯一の論理的な結論としてはっきりと分かることは、人生、宗教、道徳、社会、そして個人にあらゆる導きを与える、唯一の正しい宗教が存在するということなのです。
この唯一である真実の宗教を知るにはどうすれば良いのでしょうか?これは人間一人一人が調べなければならない課題です。人間というものは食べては寝、毎日の糧を求め外へ出て、欲求を満たすだけの存在ではなく、大いなる目的を果たすために創造されているのです。人はこの目的を達成するために、それが何なのかを探求しなければならないのです。人が神の存在を信じ、また神は無明の中に人間を置き去ったのではないと信じるのであれば、神が啓示した宗教とその生き方を調べなければならないのです。この宗教は隠されたもの、または探し出すのが難しいもの、あるいは人が理解し難いものであってはなりません。そうであれば導きの趣旨に反するでしょう。また、その宗教には時代を超えた同一の教えが含まれていなければなりません。なぜなら全てのものは、一つの絶対的真理に帰せられるからです。そしてその宗教にはいかなる虚偽や矛盾も含まれていてはなりません。それは虚偽や矛盾が一つの問題にでも存在すれば、その宗教全体の虚偽性を証明するからであり、私たちはその聖典の信頼性を疑うでしょう。
そして人類の創始から、全預言者によって宣教され続けて来たイスラームの他、 人間性に適合しつつ、上記の条件を全て満たす宗教は存在しません。キリスト教やユダヤ教などの今日の他の宗教は、彼らの時代の預言者によってもたらされた宗教であるイスラームの名残りなのです。しかし時代が進むにつれてそれは改変され、ついには失われてしまったため、現在それらの宗教から見出せるものは真実と虚偽の混在したものなのです。全ての預言者たちによって説かれた宗教とは、唯一である真実の宗教イスラームなのであり、それは人間の人生、宗教、政治、社会、そして個人のあらゆる側面に秩序をもたらします。全人類はこの宗教を探求し、その真実性を確認し、追従する義務があるのです。