人生の意味(パート2/3):イスラーム的視点
キリスト教はこの問いに答えることが出来るか?
キ リスト教において人生の意味は、イエスキリストの福音に対する信仰、つまりイエスを救世主として見なす信仰の中に根ざしています。「神はそのひとり子を 賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)しかしこの提案は、諸々の深刻な問題から無縁なわけではありません。まず、これが創造の目的と永遠の生命のための前提条件であるならば、なぜそのことが諸預言者によって世界の全ての民に教えられなかったのでしょうか?第2に、神がアダムの時代からそう経っていない時点で人間になっていたとすれば、イエスの時代以前の人々に別の存在理由が無かったのではない限り、全人類には永遠の生を勝ち取る平等な機会があったでしょう!第3に、今日イエスについて聞いたこともないような人々は、キリスト教的な創造の目的をいかにして達成するのでしょうか?当然そのような目的は余りに狭窄的で、神の正義に反していると言えます。
回答
イスラームこそは、その意味に対する人類の探索への回答です。いつの時代も、全ての男女の創造の目的は、一つでした。つまり神を知り、崇拝することです。
クルアーンは、全人類が神を知っている状態で生まれた、ということを教示しています。
「そ してあなたの主がアダムの子孫の後背部からその子孫を抜き出し、彼ら自身に(こう)証言させた時のこと(を思い出すのだ):“われこそが、あなた方の主で はないか。”彼らは言った:“私たちは証言しました。”(それは、)あなた方が審判の日に“私たちは本当に、このようなことに無頓着でした。”などと言わ ないためである。あるいは、あなた方が“私たちの父祖こそが過去に神以外のものを崇拝していたのであり、私たちは彼らの後の子孫に過ぎません。あなたは、 虚妄を行なっていた者たちの行為ゆえに、私たちを滅ぼすのですか?”などと言わないようにするためである。,(クルアーン 7:172-173)
イ スラームの使徒ムハンマドは、神はアダムを創造した時点で、人間の天性にこの原初的本能を創造した、と教えています。神はアダムを創造した際に、彼と契約 を結びました。また神はまだ生まれていないアダムの全子孫を、世代から世代へと抜き出して広げ、彼らとも契約を結びました。神は彼らの魂に直接話しかけ、 かれこそが彼らの主であることにおいて彼らに証言させました。神がアダムを創造した際に、全人類にかれの主性に対する証言をさせたのですから、この誓いは 人間の魂に刷り込まれているのです。それはたとえ魂が胎児の中に吹き込まれる前であっても変わらず、それゆえに全ての子供は神の唯一性という天性の信仰の もとに生まれ出るのです。この天性の信仰は、アラビア語で「フィトゥラ」と呼ばれます。このように、全人は神の唯一性信仰の種を抱いているのですが、それは不注意という地層に埋没し、社会的状況によって妨害されているのです。子供は放置されていれば、神‐かれこそが唯一の創造主であることを意識したまま成長することでしょう。しかし子供は皆、周りの環境に影響を受けます。神の使徒ムハンマドは、こう言っています:
「全ての子供はフィトゥラの 状態で生まれる。しかしその両親が、彼・彼女をユダヤ教徒やキリスト教徒にするのである。それはちょうど、家畜が正常な子供を出産するようなものである。 あなた方は、あなた方がそれらの体の一部を損傷する前に、それらが損傷された形で生まれてくるのを見たことがあるか?」[1]
そ れで、ちょうど子供の体が神によって自然に設置された物理的法則に従うように、その魂もまた神がその主であり創造主であるという事実を受け入れます。しか し、子供の両親は子供が彼ら自身の手法を踏襲するよう義務づけるのであり、子供はそれに対して精神的に抵抗することが出来ません。そして子供がこの段階で 従う宗教は習慣や躾の内の一種であり、神はそのようなものに対する責任を、この宗教において追及したりはしません。そして子供が成熟して大人になる時、彼 または彼女は知識と理性の宗教に従わなければならなくなります。大人になれば、人々は正しい道を見つけるため、神に対する彼らの生来の性質と彼ら自身の欲 望との間で、奮闘しなければなりません。イスラームへの呼びかけは、神が魂に刷り込んだこのフィトゥラ、つまり原初的性質と生来の性質への呼びかけです。 このフィトゥラゆえに、全ての生物の魂は天地の創造前から、彼らを創造したお方こそが彼らの主である、ということに同意せざるを得ないのです。
「そしてわれ(神のこと)はジン(精霊)と人間を、われを崇拝させるべくして創造したのだ。」(クルアーン 51:56)
イスラームにおいては、アダムの時代から最後の使徒ムハンマド(神が彼ら全てを称揚されることを)の時代に至るまで、神が全ての使徒を通して啓示した一つの基本的メッセージがあります。全ての神の使徒は、本質的に同じメッセージを携えて到来したのです:
「本当にわれら(神のこと)は、人々に神を崇拝し偽の神々を避けさせるべく、各々の民に1人の使徒を遣わした。」(クルアーン 16:36)
そして使徒は、人類を最も煩わせている問題に対し、同じ回答をもたらしました。そしてその回答は、神に対する魂の願望に語りかけるものだったのです。
崇拝行為とは何か?
「イスラーム」とは「服従」を意味します。そしてイスラームにおける崇拝行為とは、「神のご意思に従順に従うこと」を意味しています。
全ての被造物は、神によって創られた物質的法則に服従することにおいて、創造主に服従しています。
「かれ(神)にこそ、天地にあるものは属する。全てはかれのご意思に従うのだ。」(クルアーン 30:26)
し かしそれらは、その「服従」ゆえに報奨を受けたり、罰されたりすることがありません。というのもそれらには意思がないからです。報奨と懲罰は、自らの自由 意志でもって神を崇拝し、神の倫理的・宗教的な法規律に従う者のためのものなのです。この崇拝行為こそは、神が人類に遣わした全ての使徒のメッセージの本 質です。例えば、この崇拝行為の理解はイエス・キリストによっても強調して表現されていました。
「わたしにむかって“主よ、主よ”と言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、入るのである。」
「意 志」とは、「神が人間に求める行為」のことです。この「神の意志」には、諸使徒がその追随者たちに教えた神的法に含まれています。従って、神的法に従うこ とこそ、崇拝行為の基盤であると言えます。人類は神の宗教法を受け入れて神を崇拝することによってのみ、その人生において平安と調和、そして天国への希望 を得ることが出来るのです。それはちょうど、宇宙がその主によって設けられた物質的法則に従うことにより、調和と共に運行していることと同様です。そして 天国の希望を放棄する時、あなたは人生における究極的な価値と目的を放棄することになります。そうでなければ、私たちが美徳の人生か悪徳のそれを送るかど うかに何の違いがあるでしょうか?全人の運命は、いずれにしろ同じものになってしまうに違いありません。