クルアーンの中のイエスとマリア(その3):イエス(2)


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キリストの受難


 “イエスは、かれらが信じないのを察知して、言った。「神(の道)のために、わたしを助ける者は誰か。」弟子たちは言った。「わたしたちは、神(の道)の援助者です。わたしたちは神を信じます。わたしたちがムスリムであることの証人となって下さい1。 主よ、わたしたちは、あなたが下されたものを信じ、あなたの使徒に従います。それでわたしたちを証人たちと一緒に、書きとめて下さい。」かれら(不信者) は策謀したが、神も策謀なされた。だが最も優れた策謀者は、神であられる。神がこう仰せられた時を思い起せ。「イエスよ、われはあなたを召し2、われのもとにあげて、不信心者(の虚偽)から清めるであろう。またわれは、あなたに追従する者を、審判の日まで、不信心の者たちの上位におくであろう。それからあなたがたは(皆)われの許に帰り、あなたがたが争っていたことに就いて、われは裁決を下すであろう。”(クルアーン3章52〜55節)


 “「わたしたちは神の使徒、マリアの子マスィーフ(メシア)、イエスを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だがかれらがかれ(イエス)を殺したのでもなく、またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである3。本当にこのことに就いて議論する者は、それに疑問を抱いている。かれらはそれに就いて(確かな)知識はなく、只臆測するだけである。確実にかれを殺したというわけではなく。いや、神はかれを、御側に召されたのである4。神は偉力ならびなく英明であられる。”(クルアーン4章157〜158節)


イエスの追従者たち

 “(イエスに関する)真実の知識があなたに下された後、もしかれに就いてあなたと議論する者があれば、言っ てやるがいい。「さあ、わたしたちの子孫とあなたがたの子孫、わたしたちの妻たちとあなたがたの妻たち、わたしたちとあなたがたを一緒に呼んで、神の御怒 りが嘘付き者の上に下るように祈ろう。」誠にこれは、真実な物語である。神の外に神はない。本当に神は偉力ならびなく英明であられる。だがかれらがもし、 背き去るならば、神は悪を行う者を熟知される。言ってやるがいい。「啓典の民よ、わたしたちとあなたがたとの間の共通のことば(の下)に来なさい5。わたしたちは神にだけ仕え、何ものをもかれに列しない。またわたしたちは神を差し置いて、外のものを主として崇ない。6」それでもし、かれらが背き去るならば、言ってやるがいい。「わたしたちはムスリムであることを証言する。」”(クルアーン3章61〜64章)


 “「神こそは、マリアの子メシアである。」と言う者は、確かに不信心者である。言ってやるがいい。「誰が神 に対し、少しでも力があろうか。もしかれがマリアの子メシア、その母と地上の凡てのものを滅ぼそうと御考えになられたら、誰が制止出来よう。」天と地、そ してその間の凡てのものは、神の大権に属する。かれは御考えになられたものを創造なされる。神は凡てのことに全能であられる。ユダヤ人やキリスト教徒は言 う。「わたしたちは神の子であり、かれに愛でられる。」言ってやるがいい。「それなら何故かれは、あなたがたの罪を罰されるのか。いや、あなたがたは、か れが創られた人間に過ぎない。かれは、御望みの者を赦し、御望みの者を罰される。」天と地、そしてその間の凡てのものは、神の大権に属し、またかれこそは 帰り所なのである。”(クルアーン5章17〜18節)


 “「神こそは、マリアの子メシアである。」と言う者は、確かに不信心者である。しかもメシアは言ったのであ る。「イスラエルの子孫よ、わたしの主であり、あなたがたの主であられる神に仕えなさい。」凡そ神に何ものかを配する者には、神は楽園(に入ること)を禁 じられ、かれの住まいは業火である。不義を行う者には援助者はないのである。「神は三(位)の一つである。7」と言う者は、本当に不信心者である。唯―の神の外に神はないのである。もしかれらがその言葉を止めないなら、かれら不信心者には、必ず痛ましい懲罰が下るであろう。かれらは何故、悔悟して神に返り、その御赦しを求めようとしないのか。誠に神は寛容にして慈悲深くあられる。”(クルアーン5章72〜74節)


 “ユダヤ人はエズラを、神の子であるといい8、 キリスト教徒はメシアを、神の子であるという。これはかれらが口先で言うところで、昔の不信心な者の言葉を真似たものである。かれらに神の崇りあれ。かれ らは(真理から)何と迷い去ったことよ。かれらは、神をおいて律法学者や修道士を自分の主となし、またマリアの子メシアを(主としている)。しかしかれら は、唯一なる神に仕える以外の命令を受けてはいない。かれの外に神はないのである。かれらが配するものから離れて(高くいます)かれを讃える。”9(クルアーン9節30〜31章)


 “あなたがた信仰する者たちよ、律法学者や修道士の多くは偽って人びとの財産を貪り、(かれらを)神の道から妨げている。また金や銀を蓄えて、それを神の道のために施さない者もいる。かれらに痛ましい懲罰を告げてやれ。”(クルアーン9章34節)


イエスの復活

 “啓典の民の中、かれの死ぬ前にかれを信じることのない者は、一人もいない10。審判の日において、かれはかれらにとって(不利な)証人となろう。”11(クルアーン4章159節)

 “本当にかれ(イエス)は、(審判の)時の印の一つである。だからその(時)に就いて疑ってはならない12。そしてわれに従え。これこそ、正しい道である。”(クルアーン43章61節)


審判の日のイエス

 “神がこう仰せられた時を思い起せ。「マリアの子イエスよ、あなたとあなたの母が与えられた、われの恩恵を 念じなさい。われは聖霊によってあなたを強め、揺り籠の中でも、成人してからも人びとに語らせるようにした。またわれは啓典と英知と律法と福音をあなたに 教えた。またあなたはわれの許しの許に、泥で鳥を形作り、われの許しの許に、これに息吹して鳥とした。あなたはまたわれの許しの許に、生まれつきの盲人と 癩患者を癒した。またあなたはわれの許しの許に、死者を甦らせた。またわれはあなたが明証をもってイスラエルの子孫の許に赴いた時、かれらの手を押えて 守ってやった。かれらの中の不信心な者は、『これは明らかに魔術に過ぎない。』と言った。”(クルアーン5章110節)


 “また神がこのように仰せられた時を思え。「マリアの子イエスよ、あなたは『神の外に、わたしとわたしの母とを2柱の神とせよ。』と人びとに告げたか。13」 かれは申し上げた。「あなたに讃えあれ。わたしに権能のないことを、わたしは言うべきでありません。もしわたしがそれを言ったならば、必ずあなたは知って おられます。あなたは、わたしの心の中を知っておられます。だがわたしはあなたの御心の中は知りません。本当にあなたは凡ての奥義を熟知なされています14。 わたしはあなたに命じられたこと以外は、決してかれらに告げません。『わたしの主であり、あなたがたの主であられる神に仕えなさい。』(と言う以外には) わたしがかれらの中にいた間は、わたしはかれらの証人でありました。あなたがわたしを御呼びになった後は、あなたがかれらの監視者であり、またあなたは、 凡てのことの立証者であられます。あなたが仮令かれらを罰せられても、誠にかれらはあなたのしもべです。またあなたがかれらを御赦しなされても、本当にあ なたこそは、偉力ならびなく英明であられます。15」 神は仰せられよう。「これはかれら正直者が、正直ゆえに得をする日である。かれらには川が下を流れる楽園があり、永遠にその中に住むであろう。」神はかれ らを喜ばれ、かれらもまたかれに満悦する。それは大願の成就である。天と地と、その間の一切の事物は、神の大権に属する。かれは凡てのことに全能であられ る。”(クルアーン5章116〜120節)



Footnotes:

1 クルアーンの中でイエスの弟子たちに与えられた名はアル=ハワーリーユーンです。この言葉は白色のように純粋なものを表します。また、彼らは白い衣服をきていたという伝えもあります。

2 イエスは睡眠の状態の中で起こされました。ここで使われている「ワファー」という言葉は睡眠と死の二つの意味があります。アラビア語では、睡眠は小さい規模での死と呼ばれます。そして6章60節や39章42節では「ワファー」と言う言葉が死ではなく、眠りという意味で使われています。4章157節の中でイエスの磔、殺害は否定されており、全ての人間が死ぬことになっていますが、イエスは地上に戻ってくるので、この節での「ワファー」のただ一つの解釈は、眠りということになるのです。

3 イエスではない誰か別の人がイエスに似せられたのであり、磔にされたのはイエスではありませんでした。いくつかのクルアーンの解釈によると磔にされたのは、イエスの弟子の一人であり、自らをイエスに似せ、イエスが天から復活するために自ら殉教を選んだとされています。

4 イエスは魂と肉体が昇天しただけであり、死んだわけではありません。彼はまだ天に住んでおり、終末の時に地上に戻ってきます。地上での役割を果たした後に彼は死ぬのです。

5 これが全ての神の使徒の教えであり、考えでした。なのでこの記述は一つの集団だけで信じられているものではなく、神を崇拝したい全ての人の共通の教えなのです。

6 もし人が他人に従い、神に逆らうのであれば、彼はその人を神の代わりに主とみなしたことになります。

7 三位一体説のこと。

8 全てのユダヤ教徒がそれを信じているわけではありませんが、否定できているわけでもありません(5章78〜79節を見てください)。ある罪が許容され広められているのであれば、宗教内の人々すべてが責任を負います。

9 律法学者とは知識のある人々であり、修道士とは儀礼や崇拝行為に没頭している人々のことです。両者とも宗教における先導者であり模範ですが、その影響力によって人々を過ちに導く可能性もあります。

10 「かれの死」の「かれ」はイエスのこと、または啓典の民の誰かのこと、いずれをも指しえます。もしそれがイエスのことを指すのであれば、全ての啓典の民 が、イエスの地上での復活の際、その死の前にイエスを信じるようになります。そこでイエスは自分が神や神の子ではなく神の使徒であることを証明し、人々に 神だけを崇拝し、イスラームのもとに神だけに服従するよう呼びかけます。一方、もしこの代名詞が啓典の民の内の一人を指すのであれば、イエスは神ではなく 神の預言者であることを、全人が自分が死ぬ前に確信することになる、という意味になります。しかしその確信も、意思の自由からではなく、厳罰の天使を見た ときに起こることなので、当人には何の利益ももたらさないのです。

11 5節116〜118節参照

12 イエスの復活は、審判の日が近いことの印となります。

13 神と共に他のものを崇拝することは、それらを神の代わりに崇拝していることと同じです。両者とも崇拝が神以外の何かに向けられているというこですが、神は崇拝されるべきただ一つの存在なのです。

14 イエスが言ったように、イエスが自分や自分の母親が崇拝されるように呼びかけてはいないことを、神はご存知です。この質問はイエスやマリアを崇拝する人々 に、本当に彼らに従うのなら、イエスやマリアを崇拝する慣習をやめるべきではないか、と投げかけているのです。もしその慣習をやめないのであれば、彼らは 終末の日にはイエスに見捨てられるということであり、また彼らはイエスに従っていたのではなく、ただ自分の好みに従っていただけということになります。

15 別の言葉で言えば、こうなります:「あなたは誰が罰せられるべきかご存知なので、その者を罰されるでしょう。そして誰が赦されるべきなのかもご存知なの で、その者をお赦しになるのでしょう。本当に、あなたは罰する力のある強者であり、全てのことを正しく収められる英明者であるので、赦しに値する者をお赦 しになるのです。」

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