真実はひとつである(1/2)


Site Team

~に翻訳された : Español Français Deutsch Русский 中文

宗教について議論する際には、「人の信仰を判断する権利は誰にもない」、または「宗教とは個人のプライベートな問題であり、我々にそれが正しいかどうかと主張することは出来ない」、という言葉をたびたび耳にします。歴史を通じて、諸社会は彼らが“正しい”と見なす“絶対的真実”に基づいて法や倫理を作り出しましたが、それは至高と見なされる外的典拠か、または特定の事柄の善し悪しを見分ける人間の内的性質によりもたらされたものです。確かに人間は一定の範囲内で善悪を見分けることが出来ます。例えを挙げれば、人間は皆精神倒錯でも蒙ってはいない限り、糞尿を汚れたものであると見なします。また窃盗、殺人や偽りなどは悪であるとされ、真実、誠実、名誉は崇高であるとされます。これは全人類に存在する特質の結果ですが、前述の通り、それには制限があります。

もし誰かが他者の信仰や行為に対して判断を下す権利はないと言うのであれば、実際、それらの人々は矛盾したことを発言していることになります。もしもそれらの人々に対し、乳幼児の殺害、または自殺が正しいかと問えば、おそらく「正しくない」と答えるでしょう。しかし中米などに見られる一部の古代宗教など、特定の社会においては、乳幼児殺害は神々に近づく行為であるとされていたのです。また今日でもヒンドゥー教の一部地域では、夫の死後に妻が自殺をすることは称賛される行為として見られています。宗教はそれぞれの個人に任された問題であり、誰もそこに干渉し口を挟む権利はないのだと彼らがもし本当に信じるのであれば、それは乳児の殺害を称賛に値すると信じる人々による、そういった行為の遂行を許すことであり、誰にも彼らを批判する権利がないということと同じなのです。

もし私たちが個人規模でこの問題を捉えたならば、各人には宗教、法、文化、または個人的観点などに基づいた、それぞれの善悪の基準があることも分かります。ある人は姦通が容認されるものであると信じれば、それが間違ったものであるとする人もいます。ある人は麻薬の使用は自分自身の身体であるため自由であるとすれば、それが犯罪であると信じる人もいます。人は何が正しく、何が悪いのかと言うことが出来なくなり、全ての人々は自分たち自身の趣向で何が“正しい”のかを信じ、実行することに委ねられなければならないのです。

法とは特定の事柄に善悪があるという基準のもとに制定されているため、 もしも私たちがこういった信条を社会に適用するのであれば、 法の制定や執行がされない無秩序が横行する社会が誕生することになります。もし全人類に等しく合意される特定の真実があり、それを基準に法の制定が出来るのであれば、既述されたように、人間にはある程度の善悪を見分ける生来の素質が備えられているため、それは限られた場合において有効かも知れません。しかしこのような素質は、環境や精神的・宗教的要素によって容易に変質するということが分かっています。ある行為はある時代においては邪悪で不道徳的だとされていても、別の時代では健全で容認出来るものであるとされたり、時には人間性に欠けるものが救済の鍵であるとされたりするのです。これは多数派の意見に基づいた法を制定する、民主社会において明確に見て取ることが出来ます。私たちは、過去に不条理で道徳に反すると考えられていたものが、現在では社会的に認められているのを目にします。それこそは特定の問題について異なる見解を持つ者が、除け者にされる社会なのです。

こうした理由により、人間は自らの便宜のために善悪を決めるような法を制定すべきではないことが如実になります。例え政教分離を実行する同一宗教の社会の中であれ、宗教に関しては合意があったとしても、社会の中で何が正しく、何が間違っているかに関しては大きな不一致があるのです。フランスで性行為に合意出来る合法的年齢は、アメリカでは強姦とみなされます。ある国では妊娠中絶は合法ですが、別の国では犯罪であり、またある社会で同性愛が正当な人生の生き方であると見なされていれば、一方で別の社会ではそれは重大な罪にあたるのです。

従って、もし私たちが真実は絶対かつ唯一であり、各個人と社会に対し相対的でないという主張をするのであれば、次は「何が真理を明白にする倫理であり、誰がそれを行なうのか」という質問がされなければなりません。社会に適用される法とは、どういったものであるべきなのでしょうか?それらは法に精通する法律家や裁判官によって決定されるべきなのでしょうか?または通常自分たちの利益または国の利益に沿って決定を下す政治家、あるいは自身の熟考により普遍的真実を得たと主張する哲学者によって決められるべきでしょうか?既述の通り、現代社会において見られる様々な害悪から分かるように、破滅的な結果がもたらされるのを望むのではない限り、人間はこれらの問題を担うべきではないのです。何が正しく、何が間違っているのかを制定する権利のある唯一の者とは、私たちを創造し、何が私たちにとり最善であるかを知る全能なる神だけなのです。神こそがこの世界を創り、神により正義の秤は定められたのです。神こそは完全にして、不備のない万全な御方なのです。

ここでの議論は主に道徳観と行為に関する信条についてのものでしたが、次の記事では更に重要である、神に関する信条についての議論をしていきましょう。

Related Articles with 真実はひとつである(1/2)

アッラーを知るIt's a beautiful day