アフマディーヤ(中):カーディヤーニ派の冒涜的信条
神の啓示の最終性
ミルザ・グラーム・アフマドは、その著作や発言の中で自らを「真のムスリム」であると主張していますが、彼による冒涜的な主張は、著作の中のあちこちで散見されます。彼はイスラームの品位を貶めつつこう述べています。「我々 は預言者の連続性のない宗教を死した宗教と見なす。我々はユダヤ人、キリスト教徒、そしてヒンズーの宗教は預言者がいないため、それらを死した宗教と呼 ぶ。もしイスラームの立場もそうなのであれば、我々は物語を語る者に過ぎないのである。なぜ我々はそれが他の宗教を優越したものであると見なすのか?」(マルフーザト・エ・ミルザ 10巻127頁)
彼はこのようにも述べています。「聖 預言者(ムハンマド)の後、神による啓示の扉が復活の日まで完全に閉ざされたとの主張は、いかにばかげた虚偽の主張であることか。全能なる神との直接的な 交信のない宗教を、宗教と呼ぶことなどできるのか。全能なる神に誓って言うが、現在私以上にそのような宗教に愛想を尽かしている者はいないのである。そう した宗教は『サタニック(悪魔由来)』であり、神のものではない。そうした宗教は地獄へと導き、人生を盲目的なものとするのだと私は信じる。」(ザミーマ・ブラヒーン・エ・カーディヤニズム5部、ローハーニー・ハザーイン21巻354頁)
これらの引用から、ミルザ・グラーム・アフマドがイスラームという宗教を嘲り、預言者の連続性が終わったことからそれが「死した宗教」であると主張していることが明白になります。彼はイスラームを完遂させ、生き続けさせるために神の預言者として選ばれたというのです。
ムスリムとして、私たちはイスラームの教えが預言者ムハンマドの生前において既に完成されたということを信じます。神はこう述べています。“今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである。”(クルアーン5:3)
また私たちは、預言者ムハンマドの後にはいかなる預言者も到来しないということも信じています。彼こそは人類に遣わされた最後の預言者なのです。神はこう述べています。“ムハンマドは、あなたがた男たちの誰の父親でもない。しかし、アッラーの使徒であり、また預言者たちの封緘である。”(クルアーン33:40)
預言者ムハンマドは、将来数々の欺瞞者が現れ、それぞれが預言者と自称するであろうことを予言しています。彼はこう述べています。“実に、私の共同体からは30人の嘘つきが現れるであろう。私は最後の預言者であり、私の後には誰一人として預言者は現れないのだ。”(ティルミズィー)
預言者はこう述べています。“イスラエルの民は預言者たちによって導かれた。一人の預言者が死去すると、別の預言者がその後を継いだのだ。しかし、私の後にはもう預言者は現れない。カリフだけが私の後を継ぐのだ。”(サヒーフ・ブハーリー)
預言者は、100年おきにイスラーム宗教を復興させる者が現れると予言しています。彼は述べています。“実に、神は各世紀の初めに復興者を遣わせ、イスラーム宗教を復興させるのだ。”(アブー・ダーウード)
それらの復興主義者たちは神との直接的つながりを持っている訳ではありません。彼らには真の信仰者としてのムスリムの特徴を持っています。彼らは人々をクルアーンと預言者の慣行に連れ戻すため、不断の努力をするのです。
クルアーン
ミルザ・グラーム・アフマドはこう述べています。“クルアーンは神の書であり、私の口から発せられる言葉である。”(1897年3月15日の宣伝、ローハーニー・ハザーイン22巻87頁)
こ の冒涜的な主張の後、ミルザ・グラーム・アフマドは自分の好きなようにクルアーンの解釈を始めました。クルアーンの節が彼の主張にとっての「危機」となっ たとき、彼はその都度自分の主張に沿うようその意味を再解釈したのです。預言者であるという主張をする以前、ミルザ・グラーム・アフマドは典拠に従った、 適切な理解に厳格に基いていました。預言者ムハンマドが人類にとっての最後の預言者であるという明確な根拠を示すクルアーンの節でさえ、彼は文字通り受け 止めていました。預言者を自称し始めた後になり、彼はその節を再解釈し、それが預言者ムハンマドが人類にとって最後の預言者を意味するのではなく、彼の預 言者性が「承認の封印」なのであり、諸預言者・諸使徒の美と最善性を示すのであり、最終ではないのだと主張しました。
ミルザは、いくつかのクルアーンの節が、彼自身の偉大さを示すために啓示されたのだとします。彼は、以下の節々が彼のために啓示された節々の一部であると主張しています。
1.“言ってやるがいい。「あなたがたがもしアッラーを敬愛するならば、わたしに従え。”(クルアーン3:31)
2.“われは只万有への慈悲として、あなたを遣わしただけである。”(クルアーン21:107)
3.“かれこそは、導きと真理の教えをもって使徒を遣し・・・”(クルアーン9:33)
そのような調子で、彼の追従者たちは「教友」となり、彼の家族は「アフルル=バイト(高潔な一族)」となり、彼の妻は「信仰者の母」となったのです。
彼は保身のためにこう述べています。「そうだ。(我々の主張を)助長するために、クルアーンと調和し、私の『神の啓示』に矛盾しない預言者の伝承は受け入れるのである。それ以外の預言者の伝承に関しては、紙くず同然に捨てるのだ。」(ローハーニー・ハザーイン19巻140頁)
ムスリムは、クルアーンが神の言葉であり、それが大天使ガブリエルを通して預言者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)に啓示されたことを信じます。神はこう述べています。“本当にわれこそは、その訓戒を下し、必ずそれを守護するのである。”(クルアーン15:9)
クルアーンの解釈は、誰にでも許されたものではありません。ク ルアーンの解釈には複数の段階があり、その最も高い段階のものがクルアーンによるクルアーンの解釈です。二番目の段階は、預言者にまつわる真正の伝承に基 づいたクルアーンの解釈です。三番目の段階は、教友たちの言葉に基づいたクルアーンの解釈です。より弱い段階としての四番目の段階は、言語(クルアーンの 意味の翻訳のようなもの)に基づいたクルアーンの解釈です。誰しもが、好きなようにクルアーンの章句を解釈できる訳では決してありません。
預言者ムハンマド
ミルザの追従者たちは、ミルザが預言者ムハンマドに勝る存在であると主張します。彼らはこのように述べています。「約 束されたメシア(ミルザのこと)の知的発展は、聖預言者ムハンマドのそれよりも卓越したものである。そしてそれは約束されたメシアが聖預言者ムハンマドに 対して持っている優越性の僅か一部に過ぎない。聖預言者の潜在的な知的能力は、文明の欠乏によって完全には発揮されないままだったのである。それは約束さ れたメシアを通して、文明の発達と共に完全に発揮されたのである。”(諸宗教の再評価、1929年5月、カーディヤーニ・マズハブ、266頁、ラホール版)
ミルザは預言者ムハンマドに下された啓示の一部は虚偽だったのであり、彼は神によって下された啓示のいくつかを誤解したとして、さらに彼を貶めます。(ローハーニー・ハザーイン3巻166−167頁)
さらに彼は、全能なる神と預言者を嘲笑しつつこう述べています。“そして神は聖預言者の埋葬の場として、酷い悪臭のたち込めた、暗くて狭い卑しい場所を選んだのである。”(ローハーニー・ハザーイン17巻205頁)
私たちはムスリムとして、預言者ムハンマドを愛し、敬意を払います。私たちは彼に神格性を属したりはしません。神はこう述べています。“(ムハンマドよ、)言ってやるがいい。「わたしはあなたがたと同じ、只の人間に過ぎない。あなたがたの神は、唯一の神(アッラー)であることが、わたしに啓示されたのである。”(クルアーン18:110)
ミルザの主張は返答にも値しませんが、彼がどのような最後を迎えたかについては特筆すべきでしょう。彼はコレラ菌に感染し、公衆トイレで恥ずべき死を遂げたのです1。
ジハード
イ スラームにおいて私たちが学ぶ基本の一つに、自己防衛があります。何者かが危害を加えてくるのであれば、私たちは単に「反対の頬を差し出す」ということを せず、自らを防衛します。自己防衛、そして外部の侵略者に対する抵抗の正当性に、議論の余地はありません。誰ひとりとして、「神からの命令だ」と自分勝手 に主張することによってジハードを取り消すことはできないのです。
ミルザ・グラーム・アフマドは実に、英国の諜報員として適役でした。彼は次のように公言しています。「私は英国政府のために、この国(インド)と他のイスラーム諸国で五万冊もの小冊子を配布した結果、数万人もの人々はその『汚れた』ジハード観を棄てたのである。」(ローハーニー・ハザーイン15巻114頁)
彼はこのようにも述べています。「私は若き頃から、65歳の現在に至るまで、英国政府のためにペンと舌を駆使し、ムスリムたちの心を真の愛と善意、思いやりへと突き動かし、ジハードという概念を馬鹿なムスリムたちの心から廃絶させるという重要な役割を担い続けてきたのである。」(キターブル・バリーヤ、ローハーニー・ハザーイン13巻350頁)
ミルザは都合の良いことに、ジハードが撤回され、イスラームの一部ではなくなったという啓示を神によって「下された」と主張しています。「本 日より、人間による剣のジハードは神の命令により撤回された。今からカーフィル(非ムスリム)に剣を振り上げ、自らを神のためのガーズィー(戦士)と名乗 る者は、使徒(ムハンマド)に背くこととなるのである。私の到来により、剣のジハードはなくなったのだ。我々は平和と友好の旗を掲げるのである。」(宣伝集3巻295頁)