ジョナサン カナダ出身の元キリスト教徒


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始めはそれを社交の道具として用いたものの、や がては鎮静剤として常用するようになりました。もしも誰かが、私に落ち着くよう言ったとしたら、私はその人物に対し「何か理由があれば落ち着くが、その理 由は何もない」と反論したものでした。そしてそうした人生を数年間続け、さらなる深みにはまり、様々な麻薬に手を染め、一時は密売にも携わるようになった ほどでした。

しかし、やがて私は自分が何らかの慰めを求めていることに気が付きました。私は導きの光を見たことがなく、迷い去って暗闇の中におり、それらの区別が付きませんでした。私は物事の全体像を意識し出すようになりました。

私 は死について考えるようになりました。虚無という概念について考えてみましたが、それまでの人生の中でも何度もそうなったように、人生の目的について考え てみると私の頭は空白になるだけでした。そしてある夜、ベッドに横たわり熟考していた私は空を仰いで言いました。「神よ、もしあなたが本当に存在するのな ら、私をお助け下さい。」

その夜は、そのことについてそれ以上はもう特に意識することなく眠りにつきました。その後、不可解な9・ 11事件が発生しました。私はなぜそれが起きたのか、実際には何が起きたのか、そしてどうして首謀者を直ちに特定することができたのかなど、その状況全体 に対して困惑していました。そのとき、それまでに耳にしたことはあったものの、全く無知であった外来語、つまりイスラームに対して始めて意味が与えられま した。

私はイスラームが 文字通り、中東のどこかにある島国だと思い込んでいました。そしてそれは驚くべきことに、未だに多くの人々の間にはびこっている大きな誤解でもあるので す。ムスリムの宗教について知ってはいたものの、それは奇怪な儀礼を持つ仏教などのような宗教だと思っていました。しかしある夜、友人たちと出かけた際に イスラームが熱い話題となりました。

友 人たちの何人かがイスラームは愚かな宗教だと批判し始めました。驚くべきことに、友人の何人かがムスリムで、彼らは自分たちの宗教を擁護し始めました。そ うしたトピックや、それが持つ近い将来への影響に興味を持った私はイスラームについて調べてみることにしました。そして発見したことに驚きました。ムスリ ムたちは神を崇拝しているというのです。さらに、彼らはイエスが預言者かつ神の使徒で、彼はムスリム(神に帰依する者を指す語)であると信じ、神によって 十字架に磔にされることから救われ、彼が神の位格の一部ではなく、神のみが崇拝されるべきだと主張していることを知りました。

私は幼少の頃から神を唯一の絶対的存在として信じており、キリスト教を拒否したのもイエスへの崇拝がきっかけであることから、それらの情報に共感を覚えました。

私 はイスラームとキリスト教の比較検証を始めました。私は宗教問題について興味を持つようになり、絶えずその分野の読書をするようになりました。私はキリス ト教の問題については祖母に相談し、イスラームについては友人たちに相談しました。そして双方に議論を検証してもらい、どちら側の議論が検証に耐え得るも のなのか確かめてみました。

クルアーン とバイブルを通読し、自然界における神の奇跡を観察し、長い自己省察のプロセスを経て、私は自分にこう問いかけました。「イスラームは真理として映るもの の、それは本物なのか?」そしてその瞬間、私が以前に捧げた祈りが脳裏をよぎりました。「神よ、あなたが本当に存在するのなら、私をお助け下さい。」私の 全身に鳥肌が立ちました。これがその祈りに対する答えだと直感したのですが、依然としてムスリムになるかどうか躊躇しました。私が人種的・民族的にムスリ ムとして認められるのかどうかが未知だったからです。

私は読書を続け、自分の決断を後押ししてくれるようなものを探していました。そしてある日、バイブルを読んでいたところ、マタイの福音書26章39節に突き当たりました。それは次の章句です。

彼は少し進んで行き、地面に額ずきになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから取り除いてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、あなたの御心のままに。

私にとってこの章句は、私がイスラームにおけるイエス観から学んだことの3つを確証しました。つまり、彼が地面に頭を付けて祈ったムスリムであったこと。そして彼は死の杯を取り除かれることを祈ったため、死を望んではいなかったこと。そして彼自身、神に助けを乞い求めていたことから、彼が神ではなかったことです。

それが、私がイスラーム改宗を決断する決定的要素となりました。ただし、使徒を受け入れないことにはその教えを受け入れることもできませんでした。それゆえ、2001年の12月28日、アッラーのご慈悲により信仰証言(「アッラー以外に崇拝に値するものはなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」と言うこと)をし、イスラーム改宗をしました。それ以来、私は多くの物事を達成し、様々な土地へ赴き、不可能とも思える程のことをやってきました。

信仰により、その甘美さも味わうことができるようになりますが、アッラーが私にもっと多くの善行をさせ、残りの人生もかれの道に生かせてくれるよう祈ります。あらゆる称賛はアッラーへのものです。そしてかれの使徒ムハンマドに平和と祝福あれ。アーミーン。

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