マイケル・デイヴィッド・シャピロ ロシア出身の元ユダヤ教徒


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僕は民族的にはユダヤ系ロシア人です。僕の探求は19歳のときに始まりました。僕はサイエントロジーによって負わされた傷(そう、僕は洗脳されていました)を癒しているところでした。


僕の神への信仰は不確定なものでした。僕の人生の目標は、ロックスターになることでした。僕はカリフォルニア州パサデナのアパートに住みつつ、秘書官をしていました。おかしいでしょう?


ある晩、僕がキッチンに向かおうとすると、浅黒い肌の男と出会いました。彼にこう尋ねたのを覚えています。「今夜、このウォッカを冷蔵庫に入れててもいいかな?」僕たちは握手し、僕は眠りにつきました。その後、僕の人生は急激に変化したのです。


この浅黒い肌の男はムスリムで、僕が出会った最初のムスリムでした。彼にとても興味を持った僕は、彼の信仰について色々と会話をしました。一日五回の礼拝ってどんなことをするんだ? 聖戦とは? ムハンマドって誰なんだ?


僕たちの会話はいつも、ウェードというキリスト教徒のルームメイトを伴っていました。僕たちは3人で「ユダヤ教徒、キリスト教徒、ムスリムの対話セッション」を設けました。そこで僕たちは多くの相違点と共通点を発見しました。


僕の興味はセックス・ドラッグ・パーティーから、大掛かりな真実探求にシフトしました。それは、僕が完遂しなければならない探求でした。それはつまり神の探求であり、いかに神に従うかについてのものです。


僕 は真実探求において、こう自問しました。「じゃあまずは簡単なことから始めよう。神は何人いるんだろうか?」結論は唯一であることに達しました。複数の分 割された神は、唯一の神よりも弱い。なぜならそれらの神々がお互いに合意しなければ、論争と確執が生じるはずだから。唯一の神が僕の選択でした。


神の存在の可能性について心を開いた僕は、次に無神論者と有神論者の信仰を分析してみることにしました。僕を後者に傾けさせたのは、「すべての設計には設計者がいる」という引用でした。そのことを念頭に入れ、やがて僕は神の存在を確信するまでに至りました。その理由は言葉では説明出来ませんが、ただそう感じるようになったのです。


この新発見の興奮は、創造主に従わなければならないという責任感を伴ったものでした。宗教界が僕の次の開拓分野でした。


そ れから僕は自問しました。「どこから始めるべきだろうか?」そこには文字通り数千もの宗教があるのです。それらをふるいにかけ、いくつかの候補に絞らなけ ればなりません。それを達成するにはどうすれば良いのか。僕の脳裏をこういう声がよぎりました。「その中から一神教のものを探せばいいんだ。」「そうだっ た。僕は唯一の神を信じているんだった。」


ようし。これで多神教である仏教、ヒンズー教が抜けた。一神教のカテゴリに当てはまる主要な宗教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラームでした。僕はユダヤ系だから、まずはユダヤ教から試して見ることにしました。唯一の神、諸預言者、十戒、トーラー、ユダヤの魂 … 何だって?「ユダヤの魂」?


調べていくうちに、この概念が僕の注意をひきました。こういう話があります。「人がユダヤ人として生まれたのなら、その人物にはユダヤの魂が宿っており、彼らは皆ユダヤ教に従わなければならない。」ちょっと待てよ … それは差別じゃないのか? そんなのは普遍的なものではないだろう。

と いうことは、神はユダヤの魂、クリスチャンの魂、ムスリムの魂、ヒンズーの魂を創っているのだろうか? 人は皆、平等に創られたのではなかったのだろう か? 人には生まれたときから宗教が割り当てられているのなら、神の定めによってそれに留まり続けなければならないのだろうか … たとえその宗教が本物ではないと信じたとしても? ううむ … それには同意しかねるな。

僕を困らせたもう一つの問題は、ユダヤ教には厳格な地獄の概念がないことでした。それなら、どうして善人である必要があるでしょうか? 罪から遠ざかる必要性は? 厳しい懲罰への恐怖心がなければ、道徳的に振舞う意味などあるのでしょうか。

僕はキリスト教に駒を進めました。唯一の神、父、子、精霊…もう一度…唯一の神、父、子、精霊。えっと、説明して下さい。それら全部がどうして唯一の神たりえるのか?  1 + 1 + 1 = 3でしょう? では、なぜ唯一の神を信じるなどと主張することが出来るのか?

説明に次ぐ説明、数式に次ぐ数式、比較に次ぐ比較、類推に次ぐ類推をもってしても、私はこの概念をうまく理解することが出来ませんでした。まあ、もうちょっと調べてみようか。


次 の主な教義。それは、イエスは我々の罪のために死んだのであり、それは我々が「原罪」を抱える堕落した存在だからというものです。そのため、「神の子」で あるイエス・キリストは、人々を地獄から救うため、そしてアダムによって我々に受け継がれた罪を癒すために殺されなければならなかったというものです。


と いうことは、我々は罪人として生まれてきたというのでしょうか? 罪を犯すということは、間違ったことをするということでしょう? なら、一歳の赤ん坊 は、何らかの不正によって罪深いのでしょうか? それは何かの間違いでしょう。ある一人の人物の行為によって、全人類は被害を被らなければならないと言う のでしょうか? その話における倫理とは一体何なのでしょうか? たった一人の逸脱者がいれば、グループ全体を懲罰するというものでしょうか? なぜ神が そのような決まりを作るでしょうか? それは論理的ではないことです。


イ エスは「人類を愛するあまり」死んだといいます。ちょっと待ってください。バイブルでは、イエスが「父よ、なぜ私をお見捨てになったのですか?」と言って います。つまり、イエスはなぜ残酷な殺され方をしなければならなかったのかを、自分では分かっていなかったことになります。しかし、彼は「進んで」犠牲に なったことにされています。いずれにせよ、私はこうした信仰を受け入れることが出来ませんでした。では次の宗教に行きましょう。


イスラームは「神への服従」を意味します。主な信条は次のとおりです。唯一の神、一日に五回の礼拝、余財から年間2.5%の喜捨、ラマダーン月の断食(神へとお近付きになるため、そして人生に感謝するため等の理由)、経済的に可能であれば、一生に一度マッカへ巡礼をすること。ここまでは、何も理解に苦しむものはないですね。


ここには、論理に反するものは一切ありません。クルアーンは、興味深い奇跡の数々や、時を超越した英知に満ち溢れています。近年になり発見された多くの科学的事実が、この書物のなかに1400年以上も前から記されています。


イ スラームはとりあえず、私の必要条件を合格しました。私はもっと核心に迫る疑問を解消したいと思いました。この宗教は普遍的なものなのか? その基本的な 信条は、類推や数式なしでも誰にでも理解出来るものです。それは科学と一致するのでしょうか? クルアーンにおける数々の節は、近代科学・テクノロジーと 合意しています。


僕が数えきれない程の理論的事実を精査し、読書と調査を重ねた結果、一つのことが最も注意を引きました。それはこの宗教の名称である「イスラーム」です。僕はそれがクルアーンの中で、何度も言及されているのに気付きました。


以 前の調査について思い出すと、旧約聖書から「ユダヤ教」という単語や、新約聖書から「キリスト教」という単語を一度すらも目にしなかったことに気付きまし た。これは僕にとって大きなことでした。なぜ、それらの聖書には、自身の宗教の名前が記されていなかったのでしょうか? それらの聖書には名前がなかった のです。僕はユダヤ教が「ユダヤ・教」、キリスト教が「キリスト・教」であることに気付きました。


ユダヤ、あるいはユダとは、誰だったのでしょう? 彼は、神が人類に教えを啓示したときのヘブライ人の族長でした。つまり、この宗教はこの人物の名に由来しているのです。それでは、キリストが誰だったのか見てみましょう。彼は、神の教えをユダヤ人に伝えた人物でした。この宗教も、一人の人物の名に由来しているのです。


これらの宗教の名称は、人名に「教」が付いたものです。その事実にも関わらず、それらの宗教の名称は、その啓典のなかでは言及されていないのです。僕はそのことがとても奇妙であると感じました。


もしも僕が訪問販売をしていて、「何々をご購入されませんか?」と言ったとすれば、「その何々の商品名は何ですか?」という質問が来るのは当然でしょう。商品に名前が無ければ、その販売を期待することは出来ません。


名称は、物理的であれ非物理的であれ、人が物を識別するにあたって根本的な役割を果たします。もしも宗教が地球上の全人類に広まり、人々によって実践されるのであれば、それに名称があって然るべきではないでしょうか?


さ らに言えば、その名称は神ご自身から与えられるべきものではないでしょうか? それが僕の強調したい点なのです。「キリスト教」や「ユダヤ教」といった名 称は、聖典のなかには記されていません。神ではなく、人間がそう名付けたのです。神が人類への宗教を定めながら、それに名称を与えないといった概念は、僕 にとって到底受け入れることの出来ないことです。


その時点で、最低でも僕の観点からは、キリスト教とユダヤ教は、純粋・論理的・包括的な宗教としての信頼性を失いました。


それらの宗教のなかで、イスラームは啓典内に名称が言及された唯一の宗教です。このことは僕にとって極めて大きなことです。


その時点で、僕はイスラームに従うことを決めました。そして僕はムスリムとなったのです。僕は真実を知りました。そして暗黒から抜けだしたのです。僕は光明の中に出てきたのです。

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