実直性の方向転換


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では、これらの異なる聖書版本はどこから来たのであり、また神感による神の言葉を定義する困難性の理由は何なのでしょうかこれらは“古代写本”に遡ります。現代のキリスト教世界は、2万4千もの聖書の“古代写本”を有します。それらは最古で西暦4世紀のものですが、キリストや12使 徒の時代にまで遡るものは、ひとつとして存在していません。言い換えれば、私たちのもとには、三位一体説信奉者らが教会を支配した時代以前に遡る福音書は 存在しない、ということになります。この時代以前の写本は、どういう訳かこつ然と消え失せてしまっているのであり、現存するすべての聖書はこれらの古代写本”をもとに編纂されたものなのです。聖書学者は皆、完全に一致する古代写本はひとつとして存在しないことも述べています。


今日では一般的に、ひとつの聖書、そしてひとつの版本しか存在しないと信じられていますが、この認識は現実とは程遠いものです。現存するすべての聖書(キング・ジェームス欽定訳、新改訂標準訳、新米国訳、新国際訳など)は、これらの中のひとつとして、決定的典拠とはなり得ない様々な写本からの広範に渡る、いわゆるカットアンドペースト(切り取り・貼り付け)作業による産物なのです。そこには、一方の“古代写本”には特定の章句が存在するが、もう一方には全く存在しないといったケースが数えきれないほどあります。たとえば、マルコ16:8−2012節は、現存する古代写本の大半(シナイ写本、バチカン写本、そしてアルメニア版)において見出すことは出来ませんが、より近代の“古代写本”において見て取ることの出来るものです。また、古代写本同士で地理的名称が完全に異なるという記録も多く残っています。たとえば “サマリア五書”の申命記27:4では“ゲリジム山”について語りますが、“ヘブライ語写本”では、その全く同じ節が“エバル山”となっています。申命記27:12−13においてはそれらは二つの異なる場所であることが明記されています。同様にいくつかのルカ4:44“古代写本”では、“ユダのシナゴーグ”について言及しますが、他では“ガリラヤのシナゴーグ”となっています。これはほんの一部の例であり、すべて記述するとなると書籍が丸一冊分必要になります。


ま た、聖書には疑わしい性質の節々が数えきれないほど存在します。それらの信頼性に対する学者や翻訳者らによる深刻な懸念に関して、読者への注意書きの類は まったくありません。キリスト教徒の過半数の手もとにあるキング・ジェームス欽定訳(標準訳として知られるもの)は、この点に関して最も悪名高いもので す。それは読者に対し、疑わしい性質を有する節々については完全に伏せてしまっていますが、近年の聖書翻訳本に関しては徐々にこの問題について実直になっ て来ています。たとえばオックスフォード出版による新改訂標準訳では、疑わしい節の箇所を二重角括弧(〚〛)によって囲むという非常に巧妙な手法を用いて います。一般の読者がそれらの括弧の役割に気付くことはほとんどないでしょう。それらは、知識のある読者に対して当該する節の疑問性が非常に高いことを告 げ知らせるものです。その一例として、ヨハネ8:1−11の“姦通の女”や、マルコ16:9−20の“主イエスの復活”、またはルカ23:34(興味深いことに、そこではイザヤ53:12の預言を確証します)などが挙げられます。


たとえばヨハネ8:1−11では、そのページの一番下に、非常に小さな文字で以下のような注釈者による解説がされています:

“7.53−8.11では最古の典拠が欠如している。その他の典拠はここか7.36、または21.25、またはルカ21.38においてテキストに変化のある別のくだりが追加されている。一部では、そのテキストは疑わしいと記してある。”

 


マルコ16:9−20においては奇妙なことに、いかにしてマルコによる福音書が完結して欲しいかという選択肢が私たちに与えられています。注釈者は短い結末”と“長い結末”を用意しているのです。それゆえ私たちは神感による神の言葉”に対し、自分の望むものを選ぶことが出来るのです。そして再び注釈者は、この福音書の最後に非常に小さな文字でこう記しているのです:

 


“一部の最古の典拠は第8節によって終結します。別の典拠ではそれより早く終結し、また別のものは早い結末と共に第9−20節に続きます。大半の典拠においては、9−20節は第8節の直後に続きますが、一部の典拠においてはそのくだりは疑わしいものとされています。”


「ピーケの聖書注釈」ではこう記されています:


“9−20がマルコの福音書由来ではないことは、現在一般的に合意されています。それらは最古の写本に見て取れず、実際にマタイの福音書、そしてルカの福音書で使用されていた写本ではなかったようです。10世紀のアルメニア写本では、そのくだりはパピアスが言及した長老アリストンに帰されています。ap.Eus.HE III, xxxix, 15


“マルコのアルメニア訳は比較的近年に発見されており、そこではマルコの終結部12節の著者としてキリスト教最初期における権威者の一人として知られるアリストンに帰されており、この伝承は正しい可能性が大いにあります。”


‐F. ケニヨン「Our Bible and the Ancient Manuscripts」(聖書と古代写本)7−8ページ、Eyre and Spottiswoode

もしそうだとしても、これらの節々は異なる“複数の典拠”から、異なる伝承が導き出されています。たとえば第14節は以下の言葉が“古代の典拠”において追加されている、と注釈者により主張されています:


“そして彼らは次のように自分たちの正当性を弁解した:「この無法と不信仰の時代はサタンによって支配されており、かれは精 霊による不浄さから真実と神の御力が広まることをよしとしません。それゆえ、今この瞬間から誠実であるよう務めるのです。」それで彼らはキリストに話し、 キリストは彼らにこう答えた:「サタンの支配する年月は完了したが、別の苦難が近付いて来ている。私を死に至らしめた罪人たちでも、真実へ立ち帰り悔い改 めれば、正義という、天国にある霊的で不滅の栄光を勝ち取ることが出来るのである。

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