病人を見舞うこと(パート2/2)
病人を訪問することに対しての報奨は、数も規模も偉大です。預言者ムハンマドは言いました:
“も し人が、彼の病気のムスリム同胞を訪ねるならば、彼は腰を下ろすまで天国の果実を手に取りつつ歩くようなものです。また彼が腰を下ろせば、彼は慈悲を浴 び、そしてもしそれが朝であれば、七万の天使が彼のために夜まで祈り、そしてもしそれが夜なら、七万の天使が朝まで彼のために祈るのです。” (アッ=ティルミズィーの伝承)
そして彼は、こうも言いました:
“誰でも病人を訪問する者は腰を下ろすまで慈悲へと向かっているのであり、そして彼が座した時、彼はその中に包み込まれるのです。” (スィルスィラトゥッサヒーハ収録)
預言者はまた、こうも言っています。
“誰でも病人またはイスラームの同胞を見舞う者は、呼ぶ者が彼にこう叫びかけます: ‘あなたに幸せがありますように、あなたの歩む道が祝福され、そして天国にて尊厳に溢れた位階を占めますように。’” [1]
幸 福と楽観主義は神への信頼と希望から湧き出ているものである限り、イスラームの美徳です。また同様に、全能の神に対する絶望の状態を反映する時の悲しみや 悲観主義は、罪深いものです。それゆえどれだけ病人の病状が悪かろうと、あるいは“不治”の病にかかっていようと、病人を見舞う者は、慢性の病気や末期の 病などを問わず全ての物事を可能にする神への希望をもって、彼を元気づけなければならないのです。
“それでも彼には、死者をよみがえらせる御力がないとするのか?!” (クルアーン 75:40)
“…だから信者は、(不断に)アッラーを信頼するべきである.” (クルアーン3:122)
一方で見舞う者は‐例えそれが短い間であったとしても-、 病人の痛みや苦しみ、不快感や困難を忘れさせるようにします。またお見舞いは、病人の気持ちを高め、彼らの精神と決心を強めるようなものでなければなりま せん。預言者のいとこで教友のアブドッラー・ブン・アッバースは、病人を訪問する際に関し、神の御使いがこう言ったと述べています:
“堅固でありなさい。神はあなたを清められるでしょう。” (サヒーフ・アル=ブハーリーの伝承)
ま た見舞う者は、彼の訪問の機会を彼自身と訪問される者の全ての完全な依拠は神のみにあることを思い起こさせるために利用すべきです。また来世よりはこの世 で苦しむ方がよいこと、そして至高の神は試練において辛抱強く揺るぎない信仰者に報奨を授けて下さる、ということを想起させるのです。
(正 しく仕えるということは)また困苦と逆境と非常時に際してよく耐え忍ぶ者。これらこそ真実な者であり,またこれらこまた時宜をわきまえた、機転の利くス ピーチも勧められます。病人を訪問する者は、苦しむ者を前にしている時は特に、言葉の使い方に敏感で注意深くならなければなりません。とりわけ患者の心痛 を更に増やすようなことは、彼らの身体状態の悪化を招きかねません。そして彼らが病気のために何も出来ない状態にあるということは、彼らが自らの家で指導 する権利を奪われたり、また彼らの私生活が尊重されなくともよいといったりすることを意味するわけではありません。イスラーム学者のイブン・アブドル= バッルは彼のイスラーム法学書「アル=カーフィ」の中でこう記しています:
訪 問するなら、健康な者であろうと病人であろうと、言われた場所に座るべきです。主人は彼らの家のプライバシーをどのように守るかよく知っています。病人を 訪問することはスンナ(預言者の慣習)とされています。短い訪問が最善でしょう。訪問者は病人が近しい友人で彼らの同伴を楽しむことを望むのではない限 り、病人のもとに長居すべきではありません。
ま た訪問の時間に関して言えば、もし訪問者が彼の意図において真摯であるならば、それだけで彼の訪問の目的は達成され、彼が病人のもとに長居することや不必 要な妨害をする必要はないのです。シリアの学者アブドル=ファッターハ・アブー・グッダは彼のイスラームのマナーの著書にこう記しています:
訪問の長さは金曜の二つの説法の間より長くてはいけない。こういった観点から、訪問は挨拶の言葉を伝え、病人の状態を尋ね、その回復を祈り、そしてさよならを言った後すぐに去るのに十分な時間だけ確保すればよいのです。
ま た訪問者は常に思いやりを示す必要があります。例えば彼の言葉の適切さによる思いやり、彼の正しい行いを通しての思いやり、そして彼の短い滞在を通しての 思いやり。これら全ては、そうすることによって神の哀れみへと導かれるのだという確実な知識ゆえのものです。彼の最愛の預言者はこう言いました:
“地上のものに慈悲を示しなさい。そうすれば天の上のお方があなたに慈悲を示されるであろう。”
そ して最も慈悲深い行動は、預言者ムハンマドが病人を見舞った際のスンナ(慣習)を模倣することです。なぜなら彼が言ったように言い、行ったように行うこと は、現世と来世の両方で訪問者と訪問される者両方にとっての成功をもたらす最も確実な方法だからです。この件に関して私たちに伝わっている預言者の伝承の 多くは、次に示す預言者の妻アーイシャのものでしょう:
も し誰かが病気になると、預言者は以下の祈りを唱えながら彼の右手をその者に置かれました: ‘人類の主よ!, 苦しみを取り去り、回復をもたらして下さい。病を根こそぎにするあなたの治癒以外に、治癒はありません。(サヒーフ・アル=ブハーリー、サヒーフ・ムスリ ムの伝承)
また病人を訪問した時の預言者の行いからも、引用してみましょう:
“心配はいりません。神がそう望まれるならば、それは(罪からの)清めです。” (サヒーフ・アル=ブハーリー)
私 たちが味わう全ての苦難は祝福の隠れ蓑です。それは肉体と精神の両方を、あらゆる害と不浄から洗浄し、清めてくれるものであるということに希望を持ち、祈 りましょう。そして人々が病の時、私たちの彼らに対する訪問によって、私たちと彼らに最も高貴なお方からの報奨が授けられますように。私たちは神の保護を 願います。