イバーダ(崇拝行為)


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●   イバーダ(崇拝行為)の意味:イバーダ(崇拝行為)に真に値するのは唯一無二のアッラーのみです。「イバーダ(崇拝行為)」という言葉は、次に示す2つのことに関して用いられます:

 

①   崇拝すること:つまり、偉大かつ荘厳なるアッラーへの比類なき讃美とかれへの愛ゆえに、かれによる御命令の遂行とかれが禁じられたことの回避をもって、かれに服従し謙虚に仕えること。

 

②   崇拝とは何を指すのか:つまりドゥアー(祈願)、ズィクル(アッラーの唱念)、サラー(礼拝)、アッラーへの愛など、アッラーが愛でられ御満悦されるところの全ての外面的・内面的な言葉や行いを指します。

 

例えばサラー(礼拝)はイバーダ(崇拝行為)であり、それを行うことはアッラーを崇拝することです。私たちはアッラーに服従し、かれを愛し、かれの偉大さを讃えつつ、かれのみを崇拝します。そして定められた手法によってでしか、かれを崇拝しません。

 

●   人間とジン[1]の創造に関する英知

 

アッラーは人間とジンをいたずらに、無意味に創造されたのではありません。アッラーは彼らがただ飲み食いし、遊び、愉快に笑い、楽しむために創られたわけではないのです。人間とジンは、偉大かつ荘厳なる彼らの主による大いなる目的ゆえに創られたのです。それは、唯一無二のかれを崇拝し、かれ以外のものの崇拝を放棄し、かれの比類のなさと偉大さを讃え、かれに服従し、命じられたことの遂行と禁じられたことを回避し、かれの規定されたことを遵守をするためです。崇高なるアッラーはこう仰せられました:-そしてわれ(アッラーのこと)はジンと人間を、われを崇拝させるべくして創造したのだ。われはかれらにどんな糧も求めず、また扶養されることも求めない本当にアッラーこそは、糧を授けられる御方、堅固なる偉力の主であられる,(クルアーン51:56,57,58)

もしそのように行えば、現世で幸せになり、来世においても勝利を収め、審判の日に彼らは主の近くに置かれます。アッラーは次のように仰せられ、彼らに約束されました:-本当に主を畏れる者は、園と川のある全能の王者の御許の、真理の座に(住むのである),(クルアーン54:54,55)

 

 

●   イバーダの英知

 

アッラーによって命じられたことの遵守と禁じられたことの回避は、かれへのイーマーン(信仰心)の基礎を作り、心の中に創造主であり、所有者であるかれの偉大さを常心の中に想起させ続けます。つまりそれらはかれを唱念し、感謝すること、そしてかれの印と被造物のことを多く想起することです。そして、この想起することとそれを心に根付かせるために、至高なるアッラーはかれのしもべたちに繰り返しかれを唱念し、それを戒心することを定められました。それがイバーダです。もし、イーマーンが増加し、強いものとなれば、発言、行動、道徳は良きものとなり、それは増えることでしょう。それから、現世でも来世でも幸せを勝ち取るよう状況が良いものとなるでしょう。その一方で、もしイーマーンを失うか、減少すると、行いは悪くなり、状況は悪化し、罰を得ることでしょう。

 

1-至高なるアッラーは次のように仰せられました:-あなたがた信者よ、アッラーをつねに唱念〔ズィクル〕しなさい。朝な夕な、かれの栄光を讃えなさい。,(クルアーン33:41-42)

 

2-至高なるアッラーは次のように仰せられました:-これらの町や村の人びとが信仰して主を畏れたならば、われは天と地の祝福の扉を、かれらのためにきっと開いたであろう。だがかれらは(真理を)偽りであるとしたので、われはかれらの行ったことに対して懲罰を加えた,(クルアーン7:96)

 

●   ウブーディーヤ(アッラーに真に従順であること)の手法

 

偉大かつ荘厳なるアッラーに対するイバーダ(崇拝行為)は、2つの偉大な基盤の元に成り立っています。それは:

 

①     偉大かつ荘厳なるアッラーへの完全な愛

②     かれに対する余すことのない服従と謙虚の念

 

です。

そしてこれら2つの基盤は、更に偉大な2つの基盤の基に成立しています。それは:

 

①     アッラーへの愛へとつながる、かれの恩恵と恩寵、慈善と御慈悲の認識

②     アッラーへの完全な服従と謙虚さへとつながる、自身とその行いの至らなさと欠如の自覚

 

です。

そしてアッラーのしもべがその主へと向かう最短の道は、主が自分自身にとって決して欠くことのできない存在であることを、常に肝に銘じていることでしょう。つまりそれは自らを単なる一人の破綻した者と見なし、自分自身の状態や地位、財産、また自身が恩恵を被っているところの手段(仕事や能力など)などが自分自身のお陰であるなどとは考えないことなのです。それは偉大かつ荘厳なる彼の主への絶対的な必要性と、もし主から見放されたら彼には喪失と破滅が待ち受けていることを心得ることなのです。

 

1-至高なるアッラーはこう仰せられました:-あなたがたの元にあるあらゆる恩恵は、アッラーからのものである。そしてあなたがたに災難が降りかかると、あなたがたはかれ(アッラーのこと)だけに哀願するのだ。” ,(クルアーン16:53)

 

2-至高なるアッラーはこう仰せられました:-人びとよ、あなたがたはアッラーに求める以外術のない者である。アッラーこそは、富裕にして讃美すべき方である,(クルアーン35:15)

 

●   イバーダ(崇拝行為)において完璧な人たち

 

イバーダにおいて完璧な人々とは、諸預言者と諸使徒です。なぜなら彼らこそは、アッラーについての知識、かれの美名、属性、行動、宝物、約束、警告、また、最もよくかれを愛し、かれの比類なさを讃えることにおいて通暁しているからです。更にアッラーは彼らに、預言者・使徒としての恩恵を授けられ、それで彼らはアッラーからのメッセージを託されたことによる卓越性と共に、特別なウブーディーヤ(アッラーに真に従順であること)という卓越性の両方を備えているのです。彼らの後に続くのが、アッラーとその使徒への信仰を全うし、またその教えによって自らを真っすぐに正したアッ=スィッディークーン(よく信じる者たち)です。そしてその後にはアッラーの道における殉教者、そしてアッラーの道のために努力する者、そしてアッ=サーリフーン(一般的に前述の者たち以外の正しい信仰者たち)が続きます。寛大な門はそれを望む者のために開かれています:- そしてアッラーと預言者に服従する者は、(来世において)預言者たち、アッ=スィッディークーン、アッラーの道における殉教者、アッ=サーリフーンら、アッラーの恩寵に恵まれた者たちと共になろう。彼らには素晴らしい連れ添いがあるのだ。,(クルアーン4:69)

 

 

 

●   しもべに対するアッラーの権利

 

天地の全てのものに対するアッラーの権利とは、彼らがアッラーのみを崇拝し、かれに何ものをも並べたりしないことです。そしてアッラーに服従し逆らうことなく、かれを想起して忘れることなく、またかれに感謝して忘恩の徒とならないことです。かれは唯一の崇拝されるにふさわしい御方ですが、ある種の人々は不能さや無知、あるいは怠慢や義務の不履行などからこのアッラーの権利をないがしろにしています。それゆえに、私たちはアッラーに許しを請い、かれへ悔い改めるのです。それゆえにもしアッラーが天地の全てのものを罰されたとしても、それでアッラーが彼らを不正に罰したことにはなりません。またもしアッラーがそれらに御慈悲を示されたとしたら、その御慈悲は彼らの行為よりも遥かによいものなのです。

 

ムアーズ・ブン・ジャバル(彼にアッラーの御満悦あれ)はこう伝えています:「私は預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)の後ろで、彼とともにウファイル(灰色という意味)という名の1頭のロバに同乗していました。彼(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:“ムアーズよ、アッラーのしもべに対する権利と、アッラーに対するしもべの権利について知っているか?”私は言いました:“アッラーとその使徒がよく御存知です。”彼(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:“アッラーのしもべに対する権利とは、彼らがアッラーを崇拝し、かれに何ものも並べたりしないことだ。そして偉大かつ荘厳なるアッラーに対するしもべの権利とは、かれに何も並べて拝したりさえしなければ、罰されはしないことだ。”私は言いました:“アッラーの使徒よ、人々にこの吉報を伝えましょうか?”彼(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は言いました:“伝えないでおくのだ。彼らが(この事に)頼り切って(イバーダや善行に努力しなくなって)しまわないように。”」(アル=ブハーリーとムスリムの伝承[2]

 

● ウブーディーヤ(アッラーに真に従順であること)の極致

 

1-アッラーの御前において信仰するしもべの責務は5つの原則で成り立っています。それらは:

 

①     命じられたことの遵守

②     禁じられたことの回避

③     恩恵への感謝

④     罪の御赦しを請うこと

⑤     災難を耐え忍ぶこと

 

です。

これら5つの義務を果たす者は、現世と来世において幸福を勝ち得るでしょう。

 

2-偉大かつ荘厳なるアッラーがそのしもべたちを試練にかけられるのは、彼らの忍耐とウブーディーヤ(アッラーの真の僕であること)を試されるためであり、彼らを滅ぼされたり罰されたりするためではありません。アッラーはそのしもべに対し、順境にあるときと同様に、逆境のときにもウブーディーヤ(アッラーの真の僕であること)を求められているのです。またしもべは人が好むことに関してアッラーの真のしもべであるように、人の厭うことに関してもそうでなければなりません。自分たちの好むことに関してアッラーの真のしもべであることは大概の人が出来ることですが、問題は自分たちの厭うことにおいてアッラーに従順であれるかどうかなのです。人々のこの点におけるスタンスは様々です。酷暑において冷水でウドゥー[3]することもアッラーへの従順さであれば、自分の妻と交わることもアッラーへの従順さです。また酷寒において冷水でウドゥーすることもアッラーへの従順さであれば、一人きりのときに自らの欲望がアッラーの定めを破ろうとするのを抑制するのもまた、アッラーへの従順さなのです。飢えや害悪に耐えるのもまたアッラーへの従順さの表れですが、問題は2つの相対する状態におけるアッラーへの従順さを分離させてしまうことなのです。それゆえ順境にあっても逆境にあっても、また厭うことにおいても好むところにおいてもアッラーへの従順さを貫き通す者こそは、恐れることもなければ悲しむこともない真のアッラーのしもべなのです。このような者はアッラーの御加護のもとにあるのであり、いかなる敵も彼を降伏させることは出来ません。ただ時にシャイターン(悪魔)が彼を騙すことはあるでしょうし、しもべは彼の不注意さや私欲、怒りなどによる試練にも遭うでしょう。そしてシャイターン(悪魔)がしもべの胸の内に忍び込むのは、実にこの3つの扉からなのです。アッラーは全てのしもべに対し、自我と欲望、またシャイターン(悪魔)でもって試練にかけられますが、それはしもべが果たしてそれらのものに屈服するか、あるいは彼の主に従うかを御覧になられたいからなのです:- 人はすべて死を味わう。われは試練のために、凶事と吉事であなたがたを試みる。そして(最後は)われに帰されるのである。,(クルアーン21:35)

 

3-偉大かつ荘厳なるアッラーは人間に御命令を課され、自我にもまた御命令を課されました。アッラーは人間から信仰心とよき行いによるかれがお好みになられることを完遂する努力をお望みになりますが、自我は財産と欲望によるそれが好む満足を望みます。

実にアッラーは現世をかれのお好みになる様々な服従や敬神行為によって現世を満たされました。そして、かれは来世において、しもべが好む様々なかれの恩寵によって天国を満たされました。

また、アッラーは私たちが来世のための行いに精進することをお望みになりますが、自我は現世のための行いに懸命になることを望みます。そして信仰心こそは救いの道であり、それは偽りから真実を、悪事から善事を見極める、いわばともし火なのです。これが人間の試練とは、こうしたものなのです。

 

1-至高なるアッラーは仰せられました:-人々は“私たちは信仰しました”とさえ言えば、試練にもかけられずに放っておかれるとでも思ったのか?実にわれら(アッラーのこと)は彼ら以前の者たちを試練にかけたのだ。そしてアッラーは(“私たちは信仰した”という言葉において)正直な者たちと嘘つきとを御存知になられたのだ。,(クルアーン29:2‐3)

 

2-至高なるアッラーは仰せられました:-そして私は自らを正当化しません。自我というものは、私の主が御慈悲をかけられたものを除いては、悪へと傾きがちであるからです。実に私の主はよく赦され、慈悲あまねきお方です。 ,(クルアーン12:53)

 

●   ウブーディーヤ(アッラーに真に従順であること)におけるフィクフ(イスラーム法):

 

大地は、そこに甘美なものも苦味のあるものも育てることができます。大地とは本来、そこに何か育てることが可能な広いものです。タウヒードとイーマーンとタクワーの木を育てる者は永遠なる甘美さと楽園を得ます。

また、不信仰と無知と反抗の木を育てる者は永遠の不幸と業火を得ます。

最も偉大な認識とは、私たちが自分の主のことと、かれのために行う義務を知ることです。

あなたがアッラーの御前で知識において理解のないこと、行動において不足があること、自分自身に欠点があること、かれの権利において怠慢があること、そしてかれとのやりとりにおいて不義があることを承認すること、これが真の知者であり、真のしもべであり、真のファキーフ(イスラーム法学者)ということです。

もし良い行いをしたならば、それはアッラーが彼へ与えた恩恵であると見なされます。そして、もしアッラーがそれを受け入れてくだされば、二つ目の恩恵であり、もしアッラーがそれを倍増してくだされば、三つ目の恩恵になります。また、アッラーがそれを受け入れてくださらなければ、そのようなものは至高なるアッラーにとってふさわしくないものだったからです。

もし悪い行いをしたならば、それはアッラーが彼を見放なされたと見なされます。そして、彼の保護をやめられたということです。

もしアッラーが彼の罪を罰せられたら、それはかれの正義であると見なされます。そして、もしアッラーが彼の罪を罰せられなければ、それはかれの恩恵であると思われます。また、もしアッラーが彼の罪を御赦しになれば、それは単にかれの慈善さと寛大さによるものと見なされるのです。

天と地にあるすべてのものは真の主であり、真の王であられるアッラーのしもべです。

すべての人間は存在の事実上、そしてイスラームの教え上、いずれにおいてもアッラーのしもべであることを承認しなければいけません:

私たちは存在の事実上におけるアッラーのしもべです。なぜならばかれは私たちの創造主であり、私たちの所有者であり、私たちのことを管理される御方だからです。

私たちは、もしかれがお望みになるのであれば与えられ、お恵みを受け、豊かにされ、貧しくされ、導かれ、迷わされ、生かせられ、死なせられる御方です。

偉大なる慈悲深き御方は、私たちがかれの英知と慈悲を必要とすれば、御望みのままに私たちにしむけられるのです。

そして、私たちはイスラームの教えにおけるアッラーのしもべです。かれが定められたことに従わなければなりません。それは、現世と来世で幸福を勝ち得るためにかれの命令を遂行し、禁じられたものを避け、彼を信仰するということです。

 

すべての被造物はアッラーを求め、必要とする欠乏した存在です。彼らに欠けているものは、次の2つによって分けられます:

 

①   不可避の欠乏性:それはすべての被造物が存在、供給、管理、生存、義務の遂行などにおいて、彼らの主に頼る以外術がないということです。

②   任意の欠乏性:それは2つことを知る利点があります。

1-しもべが自分の主について知ること。

2-しもべが自分自身について知ること。

それは彼の主が完全に自足し、何も必要としないことを知り、彼自身は必ず何かに依存しているということを認識することです。そして、このウブーディーヤについては生涯にわたって継続しなければいけません。

-人びとよ、あなたがたはアッラーに求める以外術のない者である。アッラーこそは、富裕にして讃美すべき方である,(クルアーン35:15)

 



[1] 訳者注:霊的存在のこと。

[2] サヒーフ・アル=ブハーリー(2856)、サヒーフ・ムスリム(30)。文章はムスリムのもの。

[3] イスラームにおける、いわゆる小浄。汚れを除去する意図を持って、体の定められた各部位を水で洗浄する行為。

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